金沢市伝説の激ウマ名店『ナンバーギョーザ』をぜんぶ巡ってみた(第九~第十三までもあった?ちょっとだけ続き編)
|金沢ナンバーギョーザ。金沢市に今も生きる伝説の激ウマギョーザであり、大行列店の第7ギョーザをはじめ、第一~第八があり、その味を半世紀以上にもわたり、金沢の人たちが愛してきた。
そんなナンバーギョーザをたどる旅は、前回で終わったと思った。しかし。とある有力な情報筋から、「第九~第十三ギョーザもあったらしい」という、まさかの怪情報をキャッチ。
なので3月7~8日にかけて、5000円の高速バス(就活生が多く、この時期は高いのだ)をゲットし、再び金沢へ行ってきた。ただ…これが過酷な旅となった。
500円のレンタサイクルを借り、吹雪をかきわけて進む。
まだまだ春は遠く、雪が降り続く金沢を駆けずり回った、謎が謎を呼ぶ、旅だった。そんな中で、眠い目をこする僕を叩き起こしてくれたのが、これだった。
【第12ギョーザがあった】
今回のリサーチは苦戦。図書館で何時間もカンヅメになり、どうにか見つけたのは、とんでもない表記だった。
まさか!第12ギョーザがあった!!?
実はこの第12ギョーザの店は、電話帳では桜橋店となっている。
なぜ、このような違いが生まれているのか?
考えられるのは、お店としての届け出は「桜橋店」で行っていたが、看板として「第12ギョーザの店」を掲げていたのでは?ということ。例えば第7ギョーザの店も、生まれた当時は電話帳の表記は「ギョーザの店 小立野店」だったが、すでに「第7ギョーザの店」という看板を掲げていたのだ。
届け出の店名と看板の名前が違う。これと同じように、「第12ギョーザの店=ギョーザの店 桜橋店」となっていたのでは?とも推測できる。
そもそもナンバーギョーザ各店は一枚岩という訳では無く、暖簾分けした後は、それぞれの関係性が無いパターンもあるそうだ。なので、実はお互いの詳しい事は知らないケースも多い。なので、第12ギョーザの看板を出して運営していた(時期がある)…などの可能性はあるかもしれない。
【第六ギョーザはもう一つあった】
実は第六ギョーザは、今の神田店だけになる前に、もう一つ「第六ギョーザ きたまち店」があった。
2006年に女将さんが亡くなってしまい、お店を閉めたという。また、閉店直後の第五きたまち店をおさめた映像が残っているので、キャプチャを貼る。
【第5ギョーザの前の店は骨董品店になっている模様】
第五ギョーザも、移転する前は市役所の前にあった。
凄い繁盛店だったそうで、大変に忙しかったという。辰子さんが働いた最後の店舗と言われ、60歳ほどでここを売却し、ギョーザづくりを引退した。
【第五ギョーザで命の洗濯をする】
そして僕は、さんざん冷え切ったカラダで、命からがら第五ギョーザの店へたどり着く。
たくさんのスープが入っており、モッチモチの皮とともに頂ける。大満足の味。ドラクエ的に言うと、寒さを癒やすホイミスープだ。
焼き餃子からはタレの味なのか、どこかソースのような風味が香ってくるのもまた良い。どれも野菜の味が香って食べやすく、300円とリーズナブルでおいしい餃子だ。焼酎も入れて、色々ナンバーギョーザの事を聞かせてもらう。すると、こんな面白い発言も。
【第三ギョーザだと思っていたところは、幻の第八ギョーザ?】
第三ギョーザの店は橋場店だと思いこんでいたが(ネットで圧倒的にそう言及されていた)、実は、第三ギョーザは白山市(当時は美川町)にあったという。しかしそこは、当時ギョーザという食べ物自体が知られていないせいで、売り上げが伸びず、お寿司屋さんに転向したとのこと。
そして、第三ギョーザと思い込んでいた橋場店は、お葬式の時に関係者の方が「順番的には、ウチが第八ギョーザだったよ」と語っていた事があるそう。こちらは幻の第八ギョーザ…と言えるかも知れない。
(ちなみに橋場店は、現在ナンバーギョーザの店が3店だけになる前に、最後まで営業していた店舗。電話帳によると、1995年版まで電話番号が掲載されている。)
【第六ギョーザを堪能し、そして飲み過ぎる】
そして、第六ギョーザの店へ。伝統のギョーザたちの味を堪能させてもらった。
ナンバーギョーザの話もそこそこに、この日開幕したWBCの話題で隣のお父さんと盛り上がる。…ただ…前の店とも相成って飲みすぎてしまい、結構ベロンベロンになって店を後にする(第六ギョーザの皆さん、あんな感じになってすいませんでした…)。この日は2200円で個室という、”怖いくらい激安のホテル”「カオサンファミリーホステル」で就寝。
【ナンバリングが確認できていない、他のギョーザの店をめぐる】
翌朝。実はナンバーギョーザで知られるギョーザの店では、いくつかナンバリングが確認できていない店がある(あくまで未確認という事で、「第◯ギョーザ」とナンバリングされた看板を掲げていた可能性は残る)。ホテルで200円で借りたレンタサイクルで、それを一気に巡る!
まず泉本町店。今ではカラオケ喫茶になっている。
道行く人に色々聞いたが、「第◯ギョーザ」のナンバーが看板などに冠せられていた店かどうかはわからなかった。ちなみにマンガがたくさんあったそう。
さらに、野町店。
第五ギョーザの女将さんもこちらで働いていたよう。その時の記憶だと、ナンバリングはされていなかったとか。もともとは暖簾分け店にも関わらず「ギョーザの店」では無く、「ギョーザ屋」という名前だった。なんでも「『ギョーザの店』なんて名前はダサい。だって俺たちギョーザ屋だから。「ギョーザ屋」って名前でいくよ」というロックなノリで突っぱねていたものの、昭和50年ごろに「ギョーザの店 野町店」となった模様。
そして中村町店はこのあたり。
中村町店は比較的最近まであったお店で、90年ごろの電話帳を見ても存在が確認できる。野町店からの移転で、出来たお店だとか。
そして、名は出せないが、第9~13ギョーザがあるかも?と教えて頂いた方にも、少しだけ話を聞くことが出来た。それによると、あくまで「噂で聞いた話」とのこと。
ただ、この噂は単なる噂じゃ無く、日本でも数少ない、とびっきりに面白い噂だと思う。
現に、住宅地図が「第12ギョーザの店」が存在している事は、それを想像するに余りあるし、何せ、それについて調べ、推理し、そして今も残る店を訪ねて、味を楽しむことは何より楽しい。
(中には「第十八ギョーザまであった」などという、まさかの与太話(?)もどこかで聞いた)
これは、金沢という魅力的な街に残る、大人が我を忘れて夢中になれる、今も生きるすっごい昔話だ。
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【さらに追記】
4月2日、僕はもう一度金沢に行った。
なぜまた金沢に来たのかは、まだやり残していた事があったから。腹ごしらえをして向かう。
【第三ギョーザの店の女将は、辰子さん兄妹の最後の生き残りの方だった】
そのうちの大きな一つが、第3ギョーザの正しい位置を知ること。美川町(現在の白山市)の駅前にあることを前に聞いていたので、そこに向かった。
ここ、新町にあった第三ギョーザの店。しかし、ほどなくして蛇の目寿司になり、神幸町の方へ移転したという。今は跡形もなくなっているというが・・・確かに、どのへんにあるのか検討つかん!たまらず僕は図書館へ。
図書館で美川町に関するとにかくあるだけの古い資料を請求し、司書さんを困らせる(?)。色々読んだが、第三ギョーザの店がドンピシャでここにある、という情報は無かった。しかし、第三の後にやっていた「蛇の目寿司」の情報を突破口に、当時第3ギョーザを営業していた女将さんを訪ねることが出来た。
女将だったヒサ子さんは昭和6年生まれ。第三ギョーザの店は、寿司職人の旦那さんが東京へ修行に行っている間に、美川町の知り合いが新町に所有していた空き店舗を借りて、昭和34年10月にオープンしたという。
しかし、当時の美川町は、金沢より10年遅れていた。その為、ギョーザという食べ物はまるで知られておらず、店は閑古鳥が鳴いた。しかし、本場中国の熱狂的なファンは居たそうで、かなりの量を平らげていたとか。本場の人には、ちゃんと認められていたギョーザだったのだ。店はこのほか、金沢おでんなども置いていたという。
だが、客が入らないのでは仕方がないと、2年で「蛇の目寿司」という店に転向。東京から修行で戻ってきた旦那さんの腕を武器に、繁盛店として美川を盛り上げた。8~9年同じ場所で寿司店を営んだ後、同じ美川の神幸町へ移転。
こちらで20年ほど前まで寿司店を商い、おいしいお店として美川の誰もが知る店になったものの、ご主人の体調が悪くなり、店を閉めたという。ギョーザと寿司、サイズ感の似た料理を出す2つの店が、ひそかにリレー形式で金沢から少し離れた町を盛り上げていた事が興味深い。長時間色々な楽しいお話をして頂いたヒサコさん、本当にありがとうございました!
そして、第三ゆかりの蛇の目寿司本店でお寿司を頂こうと思ったら、昼は準備中、夜は満席!僕の運命のバカヤロー!
【第1ギョーザのホントに最初の場所は、北陸ナンバー1繁華街の片隅】
さらに、ヒサ子さんから教えて頂いた、とてもとても重要な事がある。いちばん最初の第1ギョーザの店の屋台を出していた場所、それは尾山神社のそばと言われる。しかし、ホントにいちばん最初の第一ギョーザの店があったのは、北陸一の繁華街・香林坊の大和デパート裏、交番がある向かい側のやや左の所だった。
さらに、こちらの第1ギョーザの店は確かに辰子さんが立ち上げたが、実質の営業は、ヤエコさん(大正14年生まれ)がやっていた。彼女は兄妹きっての料理上手だったという。
そして焼き鳥のほか、ギョーザもここですでに出していた可能性が高いという。そしてこの場所が立ち退きとなり、尾山神社近くへ移った。
繁華街の香林坊の中で、少し人並みが薄れる通りにあった、ナンバーギョーザが本当にはじまった店の跡。感慨に浸りながら俺は思う。やっぱり、当時のギョーザが食べたいなぁ。
【まるで第0ギョーザ?大繁盛だった満州時代】
そして、今回の旅は、これ抜きでは語れない。満州時代の話が凄い。
ナンバーギョーザのゴッドマザーこと柏野辰子(旧姓:原)さん。実は彼女は満州鉄道の蘇家屯駅近くで、20代で物凄い大繁盛料理店「まとい食堂」を切り盛りしていた。
2階建ての大きな店でとにかく儲かった。一斗缶まるごとのお金がどんどん入り、そのまま銀行へ持っていくほど。忙しくてお金を管理するヒマが無く、地べたのお金を踏んで歩くほど、恐ろしくバブリーな状況だったそう。多くの使用人を扱い、辰子さんの兄妹たち(当時は12人兄妹!)もたくさん店を切り盛りしていたとか。
その時に、いろいろなメニューがある中で、すでにギョーザを提供していた。ギョーザは今と同じようにニンニク無し(中国伝統のスタイルを踏襲している為)。当時使用人だった中国人のチンさんという方に習ったそうだ(後にこの方は、辰子さんに早期帰国を勧め、命の恩人となる)。極端すぎる話だが、第0ギョーザ的なお店がこのまとい食堂だったのかも知れない。
その中には、後に第三ギョーザの店を立ち上げたヒサ子さんも居て、手伝いがてら、ギョーザを作っていたこともあったという。当時からヒサ子さんの腕前も評判で、中国人のチンさんらとともに、大きなフライパンを使ってギョーザを作っていたとも言われる。
辰子さんは何せ商売上手だったそうで、出身の久留米時代から、遊郭街だった原古賀町で飲み屋を開いており、満州時代も食堂と並行して、軍隊向けにぜんざい屋まで開いていた。
しかし、日本はまさかの敗戦。終戦後、満州に最後まで残っていた辰子さんは、昭和20年の終わりごろに意を決して満州を出る。当時、終戦後の満州はあまりに危険な状況で「子供(甥っ子・姪っ子)を捨てた方が良い」「お金を渡すからこの子をくれ」などと、何度も言われるも「私は絶対にこの子たちと一緒に日本へ帰る」と押し通し、とうとう子供と一緒に日本への帰還を果たした。鉄の女だった。
日本に帰ってきたとき、たったの1000円(今の19万円ほど)しか持っておらず、ここから必死でお金を稼ぎ、第1ギョーザの店の開店にこぎつけたのだ。
そんな辰子さんだったからこそ、金沢というギョーザが全く無かった地に、ギョーザを根付かせる事ができたのかも知れない。第5ギョーザの女将さんも、何度も「あの人は漢だ。」と言っていた。
聞けば、辰子さんは昔話好きで、満州時代の武勇伝も事あるごとに語っていた人らしい。そんな辰子さんの昔話を、一度聞いてみたかった。でも…ご厚意で人づてに知ることができたから幸せだ。
第一、第二、第三・・・数字を辿っていくと、たくさんのエネルギッシュな人と、豪快な人生に出会えた。その過程で人の強い意志の力がナンバリングを作った重厚な歴史と、戦後72年経っても確かに息づいている、おいしさの力を、存分に目と足と心と舌で存分に味わった。そんな歴史を見て、聞かせて頂き、僕は本当に幸せだ。
金沢のナンバーギョーザ。それは強靭な人の心とパワーで出来ていた。
そして、頼んだギョーザ定食は、量が多くてウマかった。ありがとう石川県!
注:ここまでの情報は、あくまで私が足で集めた情報です。聞く所によると、人によって主張が若干違う部分があるそうです。ここでは、より信憑性が高いと思われるものを私なりに選び、書きました。その為、あくまで全ての方の主張に合わせたものでは無いことをご了承ください。 まあ難しい事は抜きにしてご一緒に、金沢のギョーザを楽しみましょう!
佐賀県の武雄市という所に「餃子会館」というお店がありますね。
メニューは「もしもしラーメン」と「ホワイト餃子」です
記事にある第7ギョーザの画像と同じものに見えますがどうでしょうか
違ってたら申し訳ありません
どうもありがとうございます! 伝えきれてなくて申し訳ないです、ナンバーギョーザの正統の流れを組む餃子はホワイト餃子では無く焼き餃子の方なので、違うかなとは思いますが、いつか行ってみたいお店ではあるので、佐賀に行く際にはぜひともチェックしてみたいですね。
第七ギョーザはホワイト餃子の系列店ですよ〜
餃子会館というのもそうみたいですね。
https://www.white-gyouza.co.jp/branch/noda.html
ナンバー餃子は、
正当の流れ
とかでは無く、出来た餃子屋の順番なのでは?と思っています。
読みごたえのある記事楽しかったです♪
嬉しいお言葉ありがとうございます! そして紛らわしくてすいません、確かにホワイト餃子の系列店であることは正しいのですが(後にそうなりました)、第◯ギョーザの流れを組む焼き餃子も一緒に扱っていて、元々はそちらの餃子の流れを組むお店なんです。誤解を与えやすい表現だった事を反省し、記事に少し説明を入れました。改めて、読んで頂きどうもありがとうございます。
第8餃子はその後第一食堂という名前に変更して定食屋を営んでいました。
1980年代頃の話です。
しばらくして、三口新町に移転して姿を消しましたね。
第一定食は、四百円ほどでライス、味噌汁、野菜炒め、冷奴と充実した内容でした。
餃子は食べた記憶がないな、、、、。
おお!とても素晴らしい情報をありがとうございます。名前が第八ギョーザから第一食堂になったのもまた興味深いですね。そちらのメニュー餃子があったお記憶はありましたか? あと、ホワイト餃子に関してはその通りですね。元々はナンバーギョーザ独特の焼餃子の店でしたが、それと共に、後に千葉で修行してホワイトギョーザも出すようになった形です。
訂正です。
第八餃子と第一食堂はほぼ同じ位置にありましたが、同じ人が営んでいたのか、第八餃子が閉店した後に別の人が営業開始したのかが、もう一つはっきりしません。
そうだという確証も、そうではないという確証も今の所見つかっていません。
私が通っていた頃には第一食堂になっていました。
続報嬉しいです、どうもありがとうございます。住宅地図あたりをチェックすれば割り出せそうなので、今度確認させて頂きますね。
ホワイト餃子は、第7の店主が千葉県に修行に行って会得してきたものです。
したがって、ホワイトの本家は千葉県になります。
千葉県にはホワイト餃子の店がいくつかあるはずです。
デイリーポータルZから来ました、石川ギョーザの旅、お疲れさまです。
石川は母方の祖父母の出身地であり、私の母は京都で生まれましたが、私に流れる血の半分は石川なのだと思っています。だからなのか?石川出身の方とは何故か気が合います。
若い頃に神奈川県相模原市に住んでいたのですが、アパートの並びに「萬金ギョーザ」なるお店ががあり、よく食べに行きました。丸くてパリパリの揚げギョーザでした、京都に帰ってきてから、石川出身の方にホワイトギョーザのお話と「萬金ギョーザ」はホワイトギョーザを出していたお店の、暖簾分けであるような事を聞きました。詳細は定かではないです。
チョッと検索してみたら、ホワイトギョーザ、技術連鎖店ということでした。
全国に沢山ありますね(笑)
https://www.white-gyouza.co.jp/branch/sagamihara.html
どうもありがとうございます!石川は新しいものと古いものが共存している形で、郷愁にも駆られるような素晴らしい街でした。人情に厚くてエネルギッシュな方が多かったので、また是非行かせて頂きたいですね。
またホワイトギョーザに関してはその通りですね。今回、ホワイトギョーザに関しては本筋とは離れるのであまり言及しなかったのですが、それでもこれだけホワイトギョーザに関しての返信が多いということは、やはり人を引き付けるパワーがあるという事なんでしょうね。今後そちらも注目してみます。
自分は大学まで金沢にいて、たまに第7行ってました。いま久留米に住んでて、武雄の餃子会館のもネット注文で食べたことあります。なので妙な親近感が湧きまして…
記事楽しかったです。
第◯ギョーザの話は学生時代も都市伝説的な感じでしたが、ここまではっきり調べてもらえるとすっきりした気分です。
ちなみに
自分の親父が東京の大学にいってたとき、そこにもホワイト餃子があって、仲間内で何個食べれるかみたいな競い合いをよくしてたそうです。
ホワイト餃子はいろんなとこに系統があるんだなとそこで知りました。
ホワイトの系統は今回の主旨とは違うようですが、勝手な親近感に後押しされてコメントさせてもらいました。あしからず。。
どうもありがとうございます!”第◯ギョーザ”は、ネットでも情報がなかなか出てこなくて、地元の方も知らない方が多かったので、探り探りでしたが、最終的には皆さんのご協力もあり、色々情報が出てきてとても良い、嬉しい旅になりました。
ホワイトギョーザ、確かに趣旨とは違ったんですが、記事でもチラッとしか扱っていないこれほど言及があるという事は、みんな思い入れがある食べ物なんですね。地元が千葉でホワイトのお店が近くにあったのに、あまり行ったことが無かったんですが、今度地元に帰ったときにでも足を運んでみたくなりました。そしてナンバー系統の焼餃子もとっても美味しいので、ぜひお試しください!
昔橋場町で仕事をしていた頃に第3餃子の店で餃子を持ち帰りしたことがあります。記憶ではおばあちゃんが作っていたような。皮がちょっと厚くて形は第7の焼き餃子と違い普通の餃子の形でした。手作り感満載の餃子でしたが、とてもおいしかったと思います。ほどなくして閉店してしまわれ、一度だけの経験でした。
返信がだいぶ遅れてすいません……貴重な体験談ありがたいです。ホワイトのほうでは無く、ナンバー餃子伝統の焼き餃子なのでしょうね。こんな感じのお店だったのかなぁと、頭の中で想像が広がります。