時代に追いやられた激セマ神社を巡ってみた~そこはかつて、280もの露店が並んだ大正時代の一大テーマパークだった~
|ときどき見かける、近代的な建物たちに追いやられ、すごく窮屈そうにしている神社が気になる。
同情を禁じ得ないほどに土俵際まで押し込められた神社たちの姿は、明日、いや今日の僕らの姿かも知れない。そんな彼らを見届けるために、僕は小さな旅に出た。
【アキバのど真ん中の片隅にある激セマ神社】
まずはヲタとPCの街、秋葉原。こんな現代的な街の代表格でも、時代に追いやられた神社はある。
それが大通りを1つ入った、秋葉で長年有名なホビーショップ、リバティー前にある花房稲荷神社(はなぶさいなりじんじゃ)だ。
狭い狭い小さな路地裏に、それとは不似合いに大きい鳥居が現れる。現在の社(やしろ)は戦後、地元民が再建したものだが、神社そのものは江戸時代からこの地にあったとか。
賽銭箱はチェーンで繋がれており、狐は網でガードされている。繁華街の治安を考えてのものか。そしてとにかく、建物に囲まれているため昼間でも暗い。時おりフラッシュを焚かなくては鮮明に撮りにくいほど。
寄付者の中には、稲荷にちなんでか「きつねうどん」を寄付した方も居るようだ。そんな軽いシャレの効いたひそかな後援者によって、激セマ神社は今日もなんとか生き永らえている。5円しか賽銭せず、すいません。
【あまりにも鳥居が細い、谷中の激セマ神社】
つづいては、湯島駅から千代田線に乗って千駄木駅へ。ここから谷中方面へ歩く。下町特有の狭い狭い路地を歩いて、辿り着いたのがココ、福喜稲荷大明神。
鳥居が細すぎる!それに応じて参道も細すぎる!となりのアパートの階段とそんなにフォルムが変わらないほど。予想以上の違和感にうろたえながらも歩を進める。
もはや一人しか歩けない狭さの参道は、紫の色のお花たちに迎えられ、まさに両手に花状態。ぜんぜん神社っぽくないけど、こういうのも良いね。
そしてお堂はなぜか半開き状態。近づいてみると…なかなか雑然としている。
ずっと忘れられているような、それで居てこの雑然さが良いような。そんな不思議な感覚。ドラクエで「ほこら」を尋ねたときの感覚に似てる。狭くても、提灯がボロボロでも、中はちゃんと神社だった。
そしてここには賽銭箱が無かったので、すでに置かれていた小銭の横に5円玉を置き、福喜稲荷様に軽く手を合わせ、ここを離れた。
【住宅街に突然鳥居…実は100年前、埼玉の一大観光地だった】
降り立った戸田公園駅。そして路線バスに乗り、戸田市郊外の住宅街・笹目へ。そこにあったのが、これだ。
民家の傍に貼り付くようにして、いきなり現れる高さ5mに及ぶ大鳥居。もともとは参道があったが、それが無くなり、鳥居だけ残されたのだ。
実はあの「ナニコレ珍百景(テレビ朝日)」でも取り上げられており、当時は左側の民家があり、それにも挟まれた超窮屈な鳥居だった。
現在、民家は取り壊され、そこには家庭菜園がある。
前の民家が無くなったものの、取り残されたように立つ大鳥居の姿は中々の迫力。
そして家庭菜園の横には、色々と祀られているものがある。
今や訪れる人は少なく、郊外の片隅で鳴りを潜める梅の木稲荷。実はココ、100年前の埼玉の一大テーマパークだったのだ。
この後に行った戸田市立図書館での調査で、それが良くわかった。
梅の木稲荷は大正二~五年(1913~1916)あたりに大いに観光地として栄えたという。
大正二年(1913年)2月、単なる農村の一家だった大畑五郎右衛門の家の前に「みかんや菓子が降ってくる」「梅の木橋すぐそばの庚申塔に供えたものがすぐ無くなる」「天井裏から人の声や音楽まで聞こえる…」などのふしぎな現象が起きた。それを「これは狐のしわざだ」と、当時の新聞がセンセーショナルに伝えたのだ。
それがいつの間にか「五郎右衛門さんの稲荷はスゴいご利益がある」と評判が立ち、関東一円どころか、遠く東北や北海道からも参拝客が集まった。
1日300~400人が列をなし、当時の東北本線 蕨駅の同年6月中の乗降客は前年の3倍、2400人にのぼったとか。そして、最盛期には280もの露店が並んだ。芸者置屋、旅館、土産屋、飲み屋などが軒を連ね、料理屋などでは昼夜問わずドンチャン騒ぎが続いたという。
蕨駅からは13人乗りの鉄道馬車(テト馬車)も往復し、片道二銭で客を満載し参拝客を運んでいた。白タクの如く、自前の牛車を鉄道馬車に仕立てて稼ぐ人も居たという。蕨の駅前通りも、稲荷様の門前町のような賑わいを見せた。
物凄いサイ銭の量で、カマスに入れて大八車に乗せて、銀行まで運ぶというバブリーな状態だったとか。
さらに第一次世界大戦が起こり、未曾有の戦争景気で成金が続出。一攫千金を夢見た投機家が商売の神の稲荷にすがった。この大鳥居も、その時期に株で儲けた東京の材木商が、梅の木稲荷のご利益のお礼にと、奉納したもの。
しかし盛況だった梅の木稲荷も、大正3年、5年、9年にあった洪水に加え、同十二年の関東大震災が追い打ちをかけ、石像の鳥居や神楽殿などが破壊された事で、賑わいは徐々に寂れていってしまったとか。ただ前述の材木商が建てたこの大鳥居だけは、大震災にも耐えきったのだとか。
(画像)出典:研究紀要第7号、戸田市いまむかし(共に戸田市立郷土博物館)、戸田市史研究3(戸田市)、絵本 戸田の昔話(池原昭治 絵)
激セマ神社に、そんなワケがあったなんて…いや、激セマでも未だ建っている神社だからこそ、そこには何かしらの深いワケが眠っているのかもしれない。
今では280もの露店が立ち並んだ賑わいを全く想像できない、とても静かな静かな住宅街を、僕は後にした。
時代に追いやられた激セマ神社たち・・・そこにはカップ酒のお供えと、ちょっと雑多で生活感のある普段着の姿と、とんでもなく深いワケがあったのでした。
ここまで手狭になる前に移転していてもおかしくはないのだが、稲荷神社は下手に移転とかすると祟りがあるとか畏れられてきたのかもしれない。
確かに、今回の3つの神社はいずれも稲荷神社なんですよね。羽田空港そばの穴守稲荷神社も移転作業のために事故が発生して結局移転できない、という伝説もありますし。